人の健康習慣を変えること“行動変容”は難しい
■新たな段階に入った「ヘルスケア」とデータヘルス
「あれ、前会った時より痩せていない?」「わかった?!スマートフォンで体重や食べたもの、歩数を毎日記録して意識しているだけでだいぶ体重落ちたんだ。この間、断食もやってみたけど、デトックス効果で体の調子もよくなった。気分も爽快だし、おかげで仕事の調子もいいね・・・・」最近、このようにウエアラブル・バイタルサインセンサやスマートフォンを活用して健康管理をする人が次第に目立ってきました。
「健康」に対する世の中の関心は今に始まったことではなく、人類の歴史と同時にあったようなものです。人類は、病気を防ぎ健康を維持するために、薬草やキノコ、昆虫、動物、鉱物など様々なものを加工したり、健康に効果のある物質を抽出したりして役立ててきました。19世紀以降、工業化が進み豊かになってからは、運動不足が原因の病気、いわゆる生活習慣病が最大の死亡原因となって、食事制限や運動などの生活習慣の変容が健康維持・改善のターゲットとされてきました。
近年ではICT(情報通信技術)などの普及に伴い、過剰な情報、多忙化など精神疾患が多くなっています。いくつかの企業では、心理的ストレスを和らげ、精神疾患を防ぐために、「瞑想」をはじめとした「マインドフルネス」を導入する企業も現れ、今や健康は身体的なものだけでなく、精神的なものまで含まれるようになってきました。
一方で健康であることは、単なる病気を防ぐこと以上の期待が新たに見出され始めています。それは、外見を良くしたり、仕事や生活のパフォーマンスを上げたりするということです。簡単に言ってしまえば、女性であれば「美しく、仕事もできる人」、男性であれば「格好よく、仕事ができる人」になりたいという願望です。パーソナルトレーナーや栄養指導サービスを手掛けるライザップは、費用は高額ではありますが、健康を維持したまま確実にダイエットするために、徹底した生活習慣の改善と運動習慣を身に付けさせることで、多くの「美しく、格好よく、仕事ができる人」を生み出しています。成功モデルとなる著名人や芸能人で目に見える結果をアピールし、ビジネスを成功させています。
またシニア層、シルバー層でもうまく健康を維持できれば、好きな趣味や仕事、社会活動を若い人と同じようにでき、身体的、精神的にも生き生きしていられ、それが最も重要な財産であることが理解されるようになってきました。
つまり健康は、あらゆる世代において、単に病気を防ぐ以上にこれまでとは違った意味を持ち始めています。
まさに、ヘルスケアは世代を超えて、病気を防ぐ目的から、自己実現のための強い精神、身体基盤づくりといったことを目指す新たな段階に入ったと言えます。
このような中で、個人の健康データを記録し分析することは、かなり重要な位置を占めるようになってきました。その意味でスマートフォンの普及、近年のウエアラブル・バイタルサインセンサなどの発展・普及、体重計、血圧計などの健康機器のデジタル化、それらのネットワーク化は、新たな段階に入ったヘルスケアを後押しする重要な要因と言えます。
■思ったよりも普及に時間がかかっているデータヘルス
ヘルスケアが新たな段階に入ったとは言え、実態をみると、自分自身の健康状態を測定し、行動を管理する人はまだまだ少ないのが現実です。またその普及も思ったより遅いようです。下記は米国調査会社ガートナー社の「先進テクノロジーのパイプサイクル」(2015年8月)ですが、ウエアラブルの期待のピークは昨年すでに越したと分析されています。米国ではアップルウォッチ、フィットビット、日本でも東芝、ソニーのほか、多くの企業が市場に参入しましたが、「一時的な話題」に終わった気さえします。
図1:「先進テクノロジーのパイプサイクル」ガートナー社(2015年8月)
期待が高いウエアラブル・バイタルサインセンサやスマートフォンなどによるデータヘルスの普及を阻害している要因はどの様なものなのでしょうか。弊社がこれまで取り組んできた企業のコンサルティングプロジェクトや、国のプロジェクトを通じて経験してきたことをもとに、いくつか整理してみました。
阻害要因1:生活者のライフスタイルにフィットしていない機器
現在市場で販売されているウエアラブル・バイタルサインセンサは大きく分けて、①アップルウォッチやフィットビットのような腕輪型、②東芝(現在TDKに移管)のシルミーやバイタル・コネクト社のヘルスパッチのような上半身貼り付け型に分けられます。
腕輪型は、健康を強く意識した人は利用しますが、場の雰囲気や洋服など他のファッションアイテムとのコーディネート面から、利用場面が限定されます。半袖が多い夏の季節では、腕周りは目立つポイントで、女性は特に気にします。腕周りはもともと時計やアクセサリーが占めている自己表現の大事なゾーンで、ロレックス、オメガなどの高級腕時計やアクセサリーなどが市場を占めています。つまり、腕時計型のウエアラブル・バイタルサインセンサは、ファッション性といったライフスタイルの面で、いまだ大きな壁が存在すると言えます。
一方の上半身貼り付け型は、貼り付ける方法が未確立で、東レ、NTTドコモが共同研究する“hitoe(ヒトエ)”など導電性繊維を使った衣服を利用して身につける方法などもあり、運動やリハビリなどシーンを限定すれば導入可能性はありますが、身体に多くの負担をかけるため、日常生活での実用化にはまだ遠い状況です。
また、ウエアラブル・バイタルサインセンサを使わずに、スマートフォンのアプリで健康データを入力する方法があります。「あすけんダイエットアプリ」や、タニタの無料健康管理アプリ 「ヘルスプラネット」などがそれにあたります。毎日の歩数、運動量などから消費カロリーを自動計算し、食べたものを入力することで大よその摂取カロリーを計算して、簡単なアドバイスをフィードバックしてくれるものもあります。タニタのように、体重計、体脂肪計などとの機器との連動するものもあります。この方法の良い点は、多くの人が常に携帯し使用しているスマートフォンを端末兼プラットフォームとして活用している点や、無料または低価格であること、クラウドを使い双方向型もしくはコミュニティ型であることです。一方マイナス点は、手入力が必要で面倒な部分もあったり、また他の機器とのデータの連動が未だ進んでいない点などです。そのあたりの改善には、データの標準化などもう少し時間がかかりそうです。
阻害要因2:ビッグデータ解析による革新的ベネフィットが見えない
ヘルスケアデータも一種のIoT(Internet of Things)として注目されており、研究機関では実証実験も始められていますが、健康データがまだ集まっていないこともあり、一般の生活者のレベルではビッグデータによる革新的な健康法やライフスタイルの発見が普及するには至っていません。多くの健康データが収集され、ビッグデータ解析されれば、各個人のパーソナリティ、体質、仕事や生活の状況をもとにした疾病の予測も可能になります。しかし、ウエアラブル・バイタルサインセンサの普及が進んでいないこともあって、肝心のデータが集まっていないのです。
ヘルスケアのビッグデータ解析により、生活習慣などのデータから疾病の予測をするだけでなく、健康維持、増進の効果的な方法に関する情報が世界中で交換されれば、一個人は当然のこと、各国、ひいては世界の医療費を抑制し、健康に貢献できるはずです。
今現在はその期待に応えられていないのが現実で、このこともデータヘルスの普及を阻害している要因の一つと言えます。
阻害要因3:人間の行動変容の難しさ
現在、データヘルスを使わなくても努力すれば健康は維持できます。多くの人が毎年測定する健康診断のデータ、週に一度の体重測定、適度な運動、暴飲・暴食をしないこと、バランスの良い食生活を意識することなど、昔からいわれていることを守ることです。しかし、誰しもこれがなかなかできないのです。生活習慣を変えること、つまり「行動変容」は、個人のパーソナリティ、価値観、信仰などの生き方の信条、物理的、精神的な生活・仕事環境、伝統的慣習などから、実際には容易なことではありません。
いくらデータヘルスといって機器やアプリを開発しても、個人による「行動変容」が実現されなければ成果になりません。この「行動変容」に関するプログラムやその推進環境が不足しています。医師の多くは、病気の治療に専念しているため、行動変容まで手が回りません。また行動変容には、医学だけでなく、心理学、脳科学、栄養学、スポーツ科学、社会学、経済学など、人間と社会を広く理解する学際的、業際的な知識が必要で、簡単なことではありません。最近でこそ健康心理学などと言う分野が注目されてきましたが、人間の「行動変容」にはまだまだ研究すべきことが多く存在しています。
■データヘルスそしてヘルスケアIoT普及の成功要因とは
これまでデータヘルスのいくつかの阻害要因を挙げてきましたが、一個人だけでなく、国や世界のためにもデータヘルス、そしてビッグデータを活用したヘルスケアIoTを何としてでも普及させたいところです。そこで、これまでの技術の発展と、個人そして社会全体の価値観の変化を踏まえて、ヘルスケアIoT普及のための3つの成功要因を考えてみました。
成功要因1:技術から入るのではなく、あくまでも個人の生活に密着した“サービス”から入ること
ヘルスケアIoTの目指すべき最終成果は、単に技術のイノベーションではありません。個人の健康を維持、増進させるための「行動変容」にあります。つまり、個人に健康になる習慣を身に付けてもらうことです。前にも述べた通りですが、「行動変容」は個人のパーソナリティ、価値観、信条、生活環境などが密接に関係しており、簡単なことではありません。つまり「よい機器ができたから使えば良くなるよ」ということにはなりません。体重計さえ乗らない人も多くいます。
そこで大事なことは、センサ技術、小型化技術、装着性技術、ビッグデータ解析技術など技術のイノベーションは尊重するが、それを前面に出すのではなく、技術を手段にして人間の側に入っていくことが重要なスタンスだと思います。
そう考えると、ビジネスモデルも大きく変わってくると思います。現在の多くの企業はまだハードやアプリケーションから入るケースが多いのですが、サービスから入るビジネスモデルを構築するべきです。サービスから入るビジネスモデルを形成するためのキーは、他業界とのアライアンスにあると思います。一社の提供するモノやサービスでは、パーソナライズされたサービスは提供できません。自ずと棲み分けとアライアンスが進むと思われます。
成功要因2:人を介在させたビジネスモデルを構築すること
行動変容を目指すヘルスケアIoTは、高度な人間理解に基づくものです。高度な人間理解とはどのようなことなのでしょうか。それは様々な科学的根拠のあるデータを参考にしつつ、サービスの受益者とサービスの提供者が人と人との関係を構築し、相互に理解し合い、互いに学び合うことです。
つまりヘルスケアIoTでは、必ず人を介在させたビジネスモデルを構築することが大変重要になってきます。今でも多くのヘルスケアアプリで会員同士のチャット機能や、モノによっては栄養士の個人指導機能がついています。こういった生の励ましや交流は、最も人を動機付けするものです。
健康ランチ、健康料理教室、有機野菜などの食材研究、豊かな自然環境を楽しみながらウォーキングを楽しむ旅行、マインドフルネスのコミュニティなど、リアルの世界で人と人を結びつけ、互いが学び合う様々なプログラムが考えられます。
ヘルスケアIoTは、IoTという極めて合理的な世界だけでなく、人と人、人と自然、人とモノなど“ゆらぎ”のある世界を組み込むことで、人間性を重視した発展を目指すべきと考えます。
成功要因3:個々人の健康データをシェアするための情報セキュリティとデータ流通基盤をつくること
個々人の健康データは収集され、ある目的のもとにビッグデータ解析されると、他の多くの人の健康に役に立つ有用なデータとなり得ます。健康データそのものに価値が発生するのです。そのようなことを実現させるためには、個人のプライバシーを守り、その上でデータを分析したり、交換できる高度な情報セキュリティの仕組みと技術が必要になります。
弊社ニューチャーネットワークスでは、2016年9月にヘルスケアIoTコンソーシアムを立ち上げ、その中の分科会活動として、個人の健康データ交換のためのセキュリティの仕組みとルール作りを、ICT技術、法律面、制度面、ビジネス面など多方面から検討していくことを計画しています。
現在は個々の企業がこのセキュリティという問題にそれぞれ対応していますが、その問題と効果的解決策を共有していこうとするのが、コンソーシアムの一つの狙いです。
個人の健康データのセキュリティが守られ、健康データが交換されるようになれば、データ交換の市場が出来上がり、健康保険や各種健康サービスへの活用だけでなく、食品、スポーツ、住宅など幅広い産業で応用できると考えられます。
図3:ヘルスケアIoTコンソーシアム活動ミッション
■ヘルスケアIoTは日本発の重要な新産業となる
日本は医療制度が整い、世界トップクラスの長寿国です。しかしその一方で、医療費が40兆円を超えて国家財政を圧迫し、危機的状況でもあります。医療、健康に関する良い仕組み、すなわち適切な制度は維持しつつコストを下げ、これまで以上に健康な人を増やすには、ヘルスケアに注力し、健康寿命を延伸させる努力が必要です。
そのような日本の社会的背景の中で、ヘルスケアIoTは新産業としての大きな可能性を秘めています。
一つ目は、ヘルスケアIoTに対する個人のニーズが極めて高いことです。誰しもが健康を守り維持したい。または健康をベースに良く生き、仕事したいと考えています。ヘルスケアIoTは、それに直接的に応える産業です。
二つ目は、ヘルスケアIoTは、高度な人間理解に基づく行動変容を目的とすることから、人を介在させたサービスビジネスになります。それが新たな雇用を創り出します。
三つ目は、ヘルスケアIoTは、食品産業や、地方への観光旅行による地方活性化、その他各種スポーツの振興、住宅産業の健康視点でのイノベーションなど、関連する産業を広く活性化させる可能性があります。例えば、海外の日本食ブームをきっかけにし、ヘルシーな日本的ライフスタイルそのものを世界に普及させ、関連する産業を活性化させることも可能です。
また、ヘルスケアIoTに関わる産業は、CO2排出といったエミッションも少なく、環境負荷が極めて低い産業だと言えます。環境負荷を下げ、広く産業を活性化するアイテムは他にはそうありません。今こそヘルスケアIoTを日本の戦略産業と位置付けるべきと考えます。