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「人的資本」を決してバズワードにしてはいけない

ニューチャーネットワークス 代表取締役
高橋 透

A社は人材がごっそり抜けてX事業は展開不可能になった

エネルギー業界で最先端を走る人と話している時でした。「高橋さん、A社は人材がごっそり抜けてX事業は展開不可能になり、事業撤退するはずですよ」とその人は私に話してくださった。「事業展開不可能」「事業撤退」・・・。そのことを聴き私は大変ショックでした。なぜなら事業展開が困難になった直接的な原因が、人材の引き抜きだったからです。しかし私は直後に納得しました。世界中で注目されている成長市場分野にも関わらず、A社は曖昧な経営・事業戦略、資源配分の分散、人事の不透明さなど、事業の行き詰まりの原因をたくさん挙げることができました。

振り返ってみると、似たような話は結構あります。短期的利益を追求するファンドがZ社に資本参加すると新聞で発表があったその翌週、大量の人材が競合企業に流れはじめたとか、新規参入を狙うY社が、老舗の企業から毎年研究者を数名獲得しているなどです。このような人材引き抜きは、以前外資系企業の日本市場参入ではよくあることでしたが、今では、日本企業同士でもめずらしくなくなりました。優秀な人材の争奪戦が激しくなっているのです。

 

競合に転職する社員にしてみれば、「代わり映えしない中期計画」「古いビジネスモデル」「根拠のない予算計画」など自分の行く先が全く見えない経営の下で何年も働かされ、自分の人生をつまらないものしたくないと思うのは当然と思います。多少のリスクがあっても、転職のリスクより、転職しないリスクの方が高いと判断し、転職を決意するのです。

「人的資本」を決してバズワードと認識してはいけない

いま「人的資本」という言葉がよく使われるようになりました。しかし「人的資本」と聴くと「日本企業は昔から人を中心した経営をやってきていて、大学の先生やコンサルタントが、今さらそんなこと言うのは違和感があるな・・・」。つまり「人的資本」はバズワードだと言う人がまだいます。確かに「人的資本」という言葉は、研修会社や人事コンサルタント会社がビジネスを仕掛けてくるとき、ここぞとばかりに使うため、バズワードなっていることは否定できません。しかしどうでしょう、前に挙げたような「人材獲得競争」の現実を考えると、「人的資本の劣化」が企業価値を棄損する原因になっている現実が理解できます。人材の価値を上げる経営・事業戦略、マネジメント、仕組みや仕掛けがなければ、企業価値はあっという間に下落するのです。

人的資本重視の「人的資本経営」は、一橋大学CFO教育研究センター長 伊藤 邦雄 先生が提唱されたもので、簡単に言えば「人材を管理する」ことから「人材の価値を上げる」経営に転換することを訴えかけています。「人的資本経営」とは、社会的価値と企業業績向上を両立させ企業価値を向上させるために、「人材の価値を高める」ことを経営の中核に据えるということです。

学生は安心・安泰の企業を選択しなくなった

すでに企業に入社した人材だけでなく、学生の中でも、「自分の人的資本価値」を高めようという意識が年々高まっています。私は2014年に大学でスタートアップ講座を始めました。当時私のクラスでもスタートアップ企業に入社する学生、または自分自身で起業する学生は10人に1人程度でした。それが年々増え、いまでは受講生の半数以上がスタートアップ企業に入社する学生、または自分自身で起業する計画がある、もしくはすでに自ら起業経験がある学生です。

今ではインターネットを検索すれば、企業の人事の実態から職場風土・文化まで、いくらでも確認できます。もちろん正しい情報とそうでないものが混在していますが、中には著名な人事コンサルタントや大学の研究者のコメント、論文など信頼に足りるものもあります。学生の親も、自分自身事業再編、リストラクチャリングなどを数回経験し、子供に大企業にこだわらないキャリアを勧める人も多くなっていると思います。新卒市場でも、老舗といわれる優良企業が、意欲が高く、行動力のあるイノベーター予備軍の人材獲得競争で負けるケースも多くなってきているのです。

図2は、イメージレベルではありますが、「チャレンジキャリア入社の10年間」と「安心・安泰キャリアの10年間」を比較したものですが、同じ10年、年齢でいえば33歳前後でも、10年間の知識・スキルの経験の蓄積の差は大きくなる可能性は高いといえます。最も大きく差が出るのは「自発性」「積極性」「行動力」「意思決定・判断力」など、企業の規模、歴史に関わらず重要なコンピテンシー、ひと言でいえば「アニマルスピリッツ」だと思います。

10年間のチャレンジキャリアの末、たとえ自らの起業やスタートアップ企業の中で失敗して方向転換したとしても、今ではそういったチャレンジする人材を「老舗の優良企業」が欲しがっていて、再就職先にあまり困りません。日本も遅まきながらようやくチャレンジできる社会になってきたのかもしれません。

人と組織の力を最大限に引き出す経営戦略が重要

今後はAI、IoTを活用したDXが加速度的に浸透していくと思います。DXが浸透すればするほど、獲得する人材の選択は大変重要になります。DXでの差よりも、それを構想し、実践する人材、またはAIなどでカバーできない「経験価値」のような創造的なヒューマンタッチが重要になるからです。

そうすると競争戦略の重点は、大規模な資金調達や設備投資ではなく、創造的、革新的でアウトプットを出し続ける人材の獲得とその価値向上なのです。人材は価値一定で管理し、生産性を上げる手段とだけと認識するのは経営上大変リスキーなことです。すでに「有形資産」だけでなくむしろ人材を含む「無形資産」が重要になってきているのです。

しかし、老舗の優良企業の実態を点検してみると、人的資本経営とはかけ離れたケースが多いと思います。以下の3つの視点で振り返ってみてください。

  • 個人の強み発揮の場
    発想力、独自性、自発性を発揮でき自己実現が達成される職場環境、文化があるか?
  • 個人の能力の発揮の場
    実務の中で人材が高速に育成され、実力を発揮できる仕組みがあるか?
  • 組織としての達成成果
    個人を超えた組織としての大きな成果達成の経験やチームワークの経験の場があるか?

以上のことは、決して人事部門だけの仕事ではありません。むしろ経営者・事業部門トップの仕事そのものです。人と組織の力を最大限に引き出す経営戦略が重要なのです。

先週、大学のスタートアップの授業の卒業生が私を訪ねてきてくれました。彼は卒業後、キーエンスに入社し、あのキーエンスの営業としてメキシコ、米国でキャリアを7年ほど積みました。高い業績を出し続け高収入を得たと聞きました。そして今年になって友人と営業の人・組織のコンサルティング会社を立ち上げました。ターゲット顧客、ビジネスモデルなどまだまだ固まっていない部分もありましたが、私は彼らの成功を確信しました。今では広く知られていますが、キーエンスでは上記3つの点で、大変優れた経営システムを持っています。彼が所属していた7年間、キーエンスは彼の人材価値を最大限引き出し、高め、それを経営業績につなげ、社会に返したのだと思いました。

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